訓練を終え、出発
1945年(昭和20年)7月
私は、広島県宇品で海上特攻艇㋹(正式名称四式肉薄攻撃挺。通称マルレ。以下レ挺)の乗組員として、敵艦に突っ込む訓練をしていた。
日本の戦況も悪化を辿る最中、私の所属する海上挺進51戦隊(特攻)に出征の命が下った。
宇品駅から我々隊員は、軍用列車に乗せられたものの、誰も行き先は知らなかった。また、軍特有の秘密主義で、どこに行くのかなど、知らされることもなかった。
福岡県に到着、そして任務
しかし車中で噂のあった通り、福岡(西福岡港埠頭)に到着した。基地大隊(特攻隊護衛と基地築営等を任務とする)が、早朝まだ暗い中、埠頭桟橋に整列し、我等は待っていた。
暗い中であったが、休む間もなく無蓋貨車からレ艇おろしの作業が始まった。40数艇のレ艇はつぎつぎと海面に下ろされ、暗い中作業は終了した。
ホッと一息ついた時、私と佐竹候補生が戦隊本部に呼ばれた。
戦隊本部というのは、戦隊長をはじめ、主だった幹部連中の集まりで、私も佐竹候補生も本部付の小づかい役的存在であった。佐竹候補生と私は、「またかョ」と苦笑し合いながら、小走りで本部にむかった。
用件は案の定、レ艇の監視役であった。他の隊員達は、隊列を組み、移動。場所はわからなかったが、隊の展開地が確定するまで当分の間の宿泊地であることは想像できた。
レ挺監視役は、林分隊長と佐竹候補生、私の3名であった。朝日がのぼると共に港の様子が見えてきた。
埠頭桟橋が数多く見られ、それに付随した揚陸箇所が数多くあり、格好だけは活気的であったが、監視兵らしき兵隊が、ところどころにポツンポツンと立っているだけで意外と静かであった。
たぶん、中国や朝鮮からの揚陸作業は夜中におこなわれており、揚陸物品の機密を守るためと思われた。
ただ異様なのは、船首部分だけを水面に出し、ポツンと沈没している大型船であった。
二・三ヶ月前の空襲の被害船であり、下関と現韓国釜山を結ぶ連絡船だったと聞かされた。
〈つづく〉
※トップ画像の写真、マルレ艇の模型は、山本清さんが1994年に10月に地域の文化祭に出展されるため制作されたものです。
コメント