今年も行きました。「鹿児島駅空襲の日 7月27日」

2022年

今年も、7月27日(水)10時半~11時半、かごしま市民福祉プラザで、昭和20年7月27日の「鹿児島駅空襲について語る集い」をしました。
その後、鹿児島駅構内にある慰霊碑にお参りに行きました。

参加者は、「かごしま未来の平和館プロジェクト」代表の野田洋一郎さんとTさんと私の3人でした。
Tさんは、祖母の空襲体験や父親が戦時中召集されて志布志で洞窟を掘っていた話などをしてくださいました。断片的でも構わないので、聞かれた話を「文章化してください」とお願いをしました。

記録として残しておくことは、後世の人の目に触れる可能性を作り出すことなのだと最近思うので、Tさんにもお願いしたのでした。

3人で鹿児島駅構内の慰霊碑に向かっていたら、慰霊碑の前に女性がお一人、来ておられました。

声をかけましたら、「慰霊碑に書かれてある人の遺族ではありません。祖父が、鹿児島駅空襲で亡くなりました。今日は、仕事が休んでお参りにきました。」とのこと。

「おじいさんは、その日(昭和20年7月27日)どんな用事で鹿児島駅にきておられてたのですか?」と質問しましたら、「わかりません」と。

「祖母も父もあまり語ろうとしませんでした。」「だから、よく知らないのです。昨年、やっと祖父の遺骨がある墓地がわかりました」と話されました。

50代位の女性の方でしたが、お孫さんだと思います。会ったこともないおじいさんのことをずっと
想い続けておられるのでしょう。

鹿児島市戦災復興誌によると、以下のような記述があります。

第4節 7・27空襲の死体処理

1.死体処理
 爆弾と機銃掃射による人身の被害が主で、身体部分がバラバラに飛散した死体が多く、収容作業、身元確認等は非常に難渋した。清水、大竜、名山の消防、警防団員が埋められた死体の発見、掘り出し作業を行い、主として鹿児島駅前広場に収容した。一方、飛散した死体もそろえて、同広場に安置し、警察官が検視したが、身元確認は非常に難しい状態であった。特に、鹿児島本線、日豊線の両線で列車が到着、駅に降車した客が被災したため、鹿児島市以外の人の死者が多く、身元確認を一層困難にした。処理班はトラック4台で運搬し、坂元墓地に仮埋葬した。処理作業は31日まで続いた。

鹿児島市戦災復興誌

 この女性ともっとお話をしたかったのですが、誠に暑い日で頭がボーとしており、8月6日から13日に上町サロン「白い蔵」で開催する展示会の案内チラシをお渡しして、来てくださるようにお伝えして別れました。

例年、慰霊碑にお参りの来られるご遺族の方や地元関係者とすれ違ったりするのですが、私たちが行った時間帯もあるのでしょうが、先ほどの女性以外とは誰も会いませんでした。

地元紙には、鹿児島駅空襲のことについて読者投稿欄に空襲体験者の投稿が一編載っていただけでした。

だんだんと空襲がこの街にあったことも誰も知らなくなる日がやってくるのだと思います。

追記:お供え用のお花は、地元企業「吉田葬祭」様より毎年ご寄贈頂いております。
   今年も可愛らしいピンクのカーネーションを供えさせていただきました。
   ありがとうございました。

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