第二章
新天地を夢見て
私は生まれ故郷の鹿児島県川内市で靴職人として、注文靴を作ったり、靴の修理をしたりして生計を立てていたのだが、技術が身につき独り立ち出来るようになった頃、縁あって昭和17年11月9日井上盛太郎、カヲの長女夏江と結婚した。
深志27歳、夏江24歳だった。
この頃から戦局が徐々に変わってきており、戦後知ることになったのだが、ミッドウェー海戦で「勝った、勝った」と喜んでいたのは、実は逆で戦果をあげたのはアメリカの方だった。
またさらに戦局が変わっていくうちに、靴を作る材料の革やほかの資材も配給や統制で手に入りにくくなり、私は注文靴や修理で夫婦ふたり食べていくことに不安を抱えるようになってきていた。
そんな時に満州の鞍山というところの「昭和製鋼所」で日本人工員を大量募集している話を教えてもらった。
その頃満州は「王道楽土」「五族協和」を掲げ、日本の影響下で建国10年ほどの新しい希望の地であったので、成長著しく昭和製鋼所の給料は日本のものよりははるかに良かったのだった。
夏江に「このままじゃ革材料も手に入りにくくなって、注文靴も作れないし、修理も出来なくなってくる。ここらで一旦商売替えをして満州に行ったらという話がある」と切り出した。
夏江は驚き、「満州って外地でしょう?内地より寒いというし、それに鉄工所の工員なんかできるんですか?また、住むところはどうするんですか?」と、疑問とともに反対するようなことを言い出し始めた。
「そりゃ、鹿児島より寒いだろう。最初は新米だから出来ないだろうが、同じ人間がやってる仕事だから慣れたらオイでも出来るはずだ。それにずっと住む訳じゃないし、2年くらい満州で働いて金を貯めてから日本に帰るつもりじゃ。住宅は社宅を用意してくれるということだし、もうその頃は日本も戦争に勝って、いい時代になってるはずじゃ。」
心配する夏江の意見もそこそこに、私の気持ちはもうすでに満州にあった。
満州の仕事の話は、東京駅の助役をしている同級生の宇治田君が世話してくれたもので、博多までの汽車の切符も満州の満鉄の乗車切符も手配してくれるという事だった。
私はすぐにでも行きたかったのだが、弟の末廣の肺病が酷くなって翌年の11月14日に亡くなり、末廣を見送ってからの出発となった。 私は、夫を早くに亡くし、土木作業の人夫をして私たちを育ててくれていた母トメの代わりにまだ小さかった末廣を背負って、尋常小学校に通っていた。
たった一人の弟と兄弟で過ごした懐かしい日々。身体のあまり強くなかった弟は24歳の若さで結核を患い、この世を去った。
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