被爆者2世の岡元均さんの話を聞いて 参加者の感想
〇女性(20代)
仕事の前任地が広島でした。 広島では、核兵器禁止条約のための世界へ向けた積極的な活動が多く行われおり、県民、市民の意識、関心もあります。しかし、鹿児島に来て、8月6日と言えば、8・6水害関連のニュースで、原爆・被爆に関する活動体や発信源がほとんどないことを実感しています。 核兵器廃絶に向けた取り組みは、広島・長崎だけでは無理で、日本全体としてその取り組みを盛り上げていかなければならない、と思います。
現在、私は「奄美の原爆乙女」という本に出会い、いろいろ調べています。奄美の大島紬の女工さん達が手先が器用ということで、男性に赤紙がきたのと同じように、召集命令が来て、長崎の軍需工場に行かされたそうです。そして、遠く長崎から離れた奄美の島の女性たちが被爆したそうです。
〇女性(20代)
私は広島出身で被爆3世、祖母が被爆者です。最近になり、祖母に話を聞いておかなきゃ、と思い、話を聞くようになりました。祖母は、語る代わりに、日記にして書いてくれましたが、それを書いた後に、寝込んでしまいました。辛い記憶を呼び起こさせる辛い作業だったのだと思いました。
〇女性(50代)
鹿児島に被爆者がいることは知りませんでした。今日は、貴重な話を聞くことが出来ました。
〇男性(30代)
最近、ホタルの会、という会に入り、月一回、知覧の特攻平和館に行っています。県内の戦跡などを見て回っています。戦争について、見たり、聞いたり、点で学んでいたことが、線でつながっていくことを感じる。平和を祈る、ということが大事。
〇男性(70代)
被爆者への差別・偏見は、ハンセン病・水俣病などと同じである。
〇男性(70代)
たまたま広島、長崎に、原爆が落ちた。鹿児島に落ちていたかもしれない、という当事者意識を持つことの重要性。核は、偶然的に爆発することがある。
〇男性(70代)
喜界島の空港は、鹿屋の中継地で、戦後、飛行機や戦争の残骸が多く残っていたので、戦争を肌身で感じている。
感想 山下 春美
「戦争を語り継ぐ集い」という会を10年近くしてきておりますが、被爆者(2世)の方の話を聞くのは初めてでした。参加者の中にも、「被爆者の人が鹿児島にもおられるんだ、ということを知りました。」という感想がありました。
何故、鹿児島に被爆者が? 昭和19年以降、鹿児島県内の女学校の生徒さん達が数多く、長崎の軍需工場に女子挺身隊として動員されていった話を思い出しました。その生徒さん達の中で生きて帰ってきたとしても、自分だけが生き残ってしまった、という罪悪感で暮らしてきた方もおられる、ということを岡元さんから聞きました。
核が抑止力にならない、ということは、今の世界の紛争が証明しています。
核のボタンは、ふと、間違って押される、ということも有り得る。だからこそ、なくしていかないといけない、という参加者の意見もありました。
核兵器がこの世に存在している限り、私たちは、死刑台の上でダンスを踊っているようなものなのかもしれません。そのことをただ、意識していないだけ・・・・。
だからこそ、被団協の方々が身をさらして訴え、活動してこられた、「核のない世界を!」を求めて、
多くの方とその気持ちを共有していきたいです。
岡元均さん、今回は本当に有難うございました!
毎月9日、鹿児島中央駅東口前で「戦争のない未来」を求めて、14時から15時まで、スタンディングしています!
自分の深奥から湧き起こる衝動に、意味を問わず、スタンディングしていこうではありませんか!
平和の象徴、眠り猫をいつまでも眺めていられますように・・・
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