11月30日(土)10時~12時 鹿児島市民福祉プラザ 5階 中会議室、参加者13名で開催しました。
お話してくださった方は、岡元 均さん(68歳)被爆2世の方です。
母親の被爆体験
母は、昭和20年(1945)8月9日長崎で被爆しました。
奄美出身で、鹿児島市立女子興業学校(現:鹿児島市立女子高校)の和装の先生になりたくて専攻科に通っていたそうなんですが、卒業を早められて、昭和19年、女性挺身隊として長崎の三菱兵器工場の事務職として動員されました。
8月9日は、たまたま仕事が休みで寮の舎監さんと二人、寮の裏山で防空壕を縦に掘っているところに、ピカッと、閃光がひかり、爆風を感じたと。母の被爆者手帳を見せてもらうと、爆心地から2.6㎞の地点とあります。
母は、寮の建物のかげで直接の被爆は免れましたが、寮の2階に夜勤明けで寝ていた人たちは、爆風で窓ガラスの破片がささり、2階から降りて来たと話をしてくれました。
当時、母が事務員として働いていた場所は、長崎の城山国民学校の校舎の一部を借りたところにあった三菱兵器製作所の事務所でした。原爆投下直後、至る所で、火災が発生し、城山国民学校には近づけなかったそうです。翌日、爆心地に近くに行きましょう、ということで、その日は裏山に避難していたところ、原爆を落とした後も、米軍機が焼夷弾を落としていったらしいんです。
そして、次の日、自分が勤務していたところに数名で歩いて向かったそうです。
が、それは、それは、言葉では言い表せないような地獄図だったそうです。
私が母から聞いた証言で一番印象に残っているのは、3、4歳位の男の子がしゃがんで、両手で目と耳を塞いでいる格好、↓
これは当時空襲に遭った時に、爆風で鼓膜が破れたり、眼球が飛び出さないように、みんなにこんな風にしてしゃがみなさい、と教えられていたそうなんです。その格好で、男の子が真っ黒こげになっていた、と
みなさん、「原爆と人間」というパネル展を見に行かれたことはないですか?
その展示パネルには、背中が真っ赤になって何年もうつぶせになって過ごされた方の写真とか、仰向けになったままの黒こげの少年という写真があるんですが、母に言わせると、「そんなものではなかった」と。
当時、広島、長崎には新型爆弾が落とされた、ということだけしかわかっておらず、写真などは多く残っていないんですね。私は、原爆資料館などに行くと、怒りしか湧いてこないんです。こんな恐ろしい兵器を造って、使うって、人間って愚かなんだなぁって。
母は、そういう状況で被爆しました。そして、翌年(昭和46年)に2月まで爆心地近くに留まっていたんです。それは何故かというと、鹿児島から一緒に行った同僚の遺骨を少しでもいいから、鹿児島に持ち帰って遺族の方に渡したい、という思いでとどまっていたそうです。
そして、翌年の2月に鹿児島に帰ってきました。ほとんど、遺骨は見つからずに、もしかしたら、その人がいたのは、この辺かもしれない、ということで、茶色の封筒に火葬した後の灰だけを持ち帰ってきた、と言っていました。
母に聞いた事があります。「アメリカに恨みがあるか?」と、そしたら、「恨みはない」と言っていました。「戦争だもん」と言っていました。それで、「天皇に恨みがあるか?」と聞いたら、「ない」と言ってました。
多分、被爆者というのは、絶対復讐をしてやろう、というのではなくて、こういう思いは私たちだけで終わりにしてほしい、という考えで、今までずっと被団協の方々は活動してきたんだと思っています。
12月10日 NHKかごしまニュースで岡元均さんのお母様、岡元米子さんがインタビューされた放送です。↓
「ノーベル平和賞99歳の被爆者”戦争なくなるための礎に”
質問
1.お母さんから、被爆者だという話を聞いたのはいつだったんですか?
母が被爆者と聞いたのは、高校一年の時だったと思います。その頃、私は高校で寮生活をしておりまして、夏休みで帰省した時に、母がいつも8月6日と9日に拝むものですから、聞いたんだと思います。
今、思えば、母はきっと、6日は8時15分、9日は11時2分に拝んでいたのではないかと思います。
そして、自分の親が被爆者だということを知らない子供たちは多いですし、被爆者手帳を取得しないまま、隠し通して暮らしている、という方の話も聞いた事があります。それは、差別されることを恐れてらしいです
そして、私は先輩や周りの人に「どうやら私は被爆2世らしい」と言いましたが、差別は受けませんでした。母も差別は受けたことはないらしいですが、病院の受付で被爆者手帳を見せた時に「あなたたちは医療費がタダでいいね」と言われたことがある、と言っていました。
母はそのことを淡々と話をしてくれました。また、母は爆心地をさまよっていたわりには身体的にも元気で、99歳で存命です。私も盲腸以外したことがありません。しかし、白血病や癌で亡くなっていかれる方がいることも事実です。
2.お母さんからどのようなタイミングで被爆体験のお話を聞かれてきたんですか?
改めて聞く、ということではなくて、なにかの拍子に思い出したように母が話し出す、という感じでした。例えば、15,16歳くらいの少年少女を見た時に、「同じような年の子が働いていた・・・」とか。
娘が二人いるんですが、夏休みの平和学習の自由研究などで、母に話を聞いていたようです。きっと、息子の私より、孫の娘たちの方が話を聞いているかもしれません。
3.岡元さん自身は、差別を受けたことはない、とのことですが、周りがいい人ばかり、だった、ということでしょうか?
周りがいい人ばかりだった、ということもあると思いますが、「被爆者」ということをよく知らなかったんだと思います。以前、宮崎のホテルで被団協の会合があった時に、別の団体で来ている年配の男性から、「被爆って何?」と聞かれたことには驚きました。知らない人もいるんだ、と思いました。
日本原水爆被害者団体協議会 ノーベル平和賞受賞について
今回の受賞は、被団協がずっと核の廃絶と戦争反対を訴えてきた成果だと思っています。
折角、被団協がノーベル平和賞を受賞したのに、日本政府は、核禁止条約に批准も署名もしていない、というのがあります。
ウクライナ、イスラエルとパレスチナ、ある人は、このままいくと第3次大戦が始まるのではないか、と。そうすると核兵器が使われるのではないかと、危ぶむ声も聞きます。
被爆者は、2度と自分たちと同じ思いをする人を生み出したくない、という活動をしてきています。
来年は戦後80年になりますが、終戦後10年後位は、被爆者もなんの保障もなく、暮らしていました。
ところが、1954年、マーシャル諸島ビキニ環礁でアメリカの水爆実験をきっかけに、核兵器反対の声が広がり、1956年日本被爆団体協議会が結成されました。
それが、奇しくも私が生まれた1956年なんです。鹿児島県は、昭和39年(1964)、鹿児島市内の250名の被爆者が鹿児島県自治会館に集まって、「鹿児島県原爆被爆者協議会」というのを結成しました。
この頃、被爆者と呼ばれる人の約1,000人位中、450人位が会員になってくださいました。現在、鹿児島の被爆者の平均年齢が、86歳前後で、他の県に比べると高いらしいです。
私の母は、99歳で施設で今、暮らしています。最近、母に話を聞こうと思って、施設に行ったのですが、体調が悪く寝ていることが多く、話を聞くことが出来ていません。
先月、被爆者2世3世が集まって、学習交流会というのを開きました。そこにオブザーバーとして被爆者協議会の会長(女性)が来られたのですが、その方は生後8か月で被爆していているので、「私は、被爆の記憶がない。だから、もし親が存命なら、話を聞いておいたほうがいい」何度も言われました。
これから数年後には、原爆被爆者はいなくなりますが、被爆者というのは決して広島、長崎の原爆だけではなく、ウラン鉱石の発掘現場の人々やマンハッタン計画に関わって被爆した人、日本人だけではなく長崎や広島に来ていた朝鮮の人も被爆しています。各県の協議会によっては、原爆被爆の証言集やDVDなど作成しているところもあります。
鹿児島県の2世3世の会の設立時(17年前)は、160名位いたんですが、今は70名位しかいません。鹿児島県の被爆者も減ってきていますが、2世3世の会も活動を活発化できていない現状があります。
私自身は、11月9日から、毎月9日に鹿児島中央駅前で、「核兵器廃絶」や「戦争反対」などのパネルを持ち、道行く人に関心を持ってもらえるようスタンディングに参加しています。
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