「朝鮮半島からの引き揚げの手助けをして、借金を負い、55歳で死去し、忘れ去られた人の本があるそうです。それは、「奪還ー日本人難民6万人を救った男ー」城内康伸著(新潮社 2024年6月出版)です。」と、知人よりメールをもらったのがお盆の頃。私はその本に関心を示す暇もなく、そのままにしていました。
(そんなことばかりなのですが・・・・・)
ところが先日、瀬下三留さんより奇遇にこの本の紹介ラインが届いたので、皆さんにもぜひ紹介したいと思います。
各ネット情報から取り寄せた紹介記事をまとめてくださっています。引用先は表記しております。
「引き揚げの神様」 松村義士男(まつむら ぎしお)
引用先:「デイリー新潮」「ヤフーニュース」
終戦後、北朝鮮で難民となった6万人の日本人を脱出させた反政府主義者の生き方
外交官・杉原千畝が、国の命令を無視して発給し続けた「命のビザ」で救われたユダヤ難民の数は約6000人と言われる。
一方、敗戦直後の朝鮮半島でその10倍、およそ「6万人」もの日本人難民の命を救った人物がいた。「引き揚げの神様」とまで呼ばれた男は、飢餓や伝染病で倒れゆく老若男女の前に現れ、多くの日本人を母国へ帰還させた、松村義士男(まつむらぎしお)だった。
彼は戦前には労働運動へ身を投じた事で、国家から弾圧された”アウトサイダー”だった。松村は明治44年、熊本に生まれ、父親の仕事の関係から北朝鮮の元山に移住し、地元の中学校に進むも、左翼運動に傾倒し、退学になっている。
退学後は日本で工場労働者として、労組の再建を画策したことから、治安維持法違反で逮捕され特高警察からも目をつけられ再び逮捕、いわば「アカ」と呼ばれる共産主義活動家になった。逮捕釈放後、朝鮮に渡り、北朝鮮で終戦を迎えた「アカ」の松村は、北朝鮮に取り残され飢えや病気で死んでいく同胞の死を目の当たりにして、義憤に駆られ命懸けの「脱出作戦」に挑むことになった。
復員省によると、当時朝鮮半島には約70万人の在留邦人が「難民」と化していた。
北朝鮮地域に25万人の邦人、さらに終戦前後には、満州から約7万人が、「難民」となりなだれ込んだ。さらにソ連軍の侵攻で、咸鏡北道の邦人のうち約6万人は、土地や家を捨て着の身着のままで、南に避難した。
咸鏡北道(ハムギョンプクド)の山間部を、1か月以上も逃避行し道中で、力尽き命を失った高齢者や子どもも少なくなかったという。日本軍は1945年春、ソ連軍と開戦すると咸鏡北道が戦場になると想定し、避難計画を立てていた。
引用先:デイリー新潮
【証言 大嶋幸雄さん】
雄基国民学校6年だった大嶋幸雄は怪我をして歩けない弟や両親と避難民の列に加わり、会寧(フェリョン)に通じる道を歩いた。
「万単位の人間がね、狭い道を夕日に向かって、ウッサ、ウッサと歩くわけですよ。暑さのあまり、バテて座り込むやつも続出するし‥。どこの本にも書いてない変な話なんだけど。どこに行っても人が泊まった後は、うんこだらけなんだよ。30、40センチの間隔で畳の上にバァーッとしてある。
屋内だよ。後から来た者は泊まれないんですよ。
夜なんか暗いところ歩いていると踏んじゃうんだ。普通の避難民がやっているんですよ。これが戦争の怖さだよ。」【証言 得能貴美子(とくのう きみこ)さん】
羅津高等女学校3年だった得能貴美子は8月11日午後から両親、姉、妹の五人で山中を歩き出した。
羅津を出発して3日目の午後、鉄道に敷いた薄い毛布の上に、生後2〜3ヶ月の乳児が置き去りにされていた。
「乳児が泣けばソ連軍に見つかって、他の人にも危害が及ぶとでも考えたのでしょうか。母親はきっと、涙を呑んで我が子を捨てたのだと思います。」得能さんは何度も同様の光景に出会った。
「何人見たでしょうか。一人が捨てると、他の女性も『じゃあ、私も申し訳ないから』と真似して捨てたに違いありません。途中で兵隊さんが『トラックに乗れ』って叫んでいたのにですね、なんで乗せてもらわなかったんだろう、って悔しかったですね。10代半ばの少女が山中に乳児が置いて行かれるのを何度も見たんです。もう、頭がおかしくなりそうでした。」
引用先:「デイリー新潮」「ヤフーニュース」
やっとの思いで咸鏡南道に着いても25,000人もの避難民が咸興(ハムフン)の街に流入し、生活困窮者が溢れていた。
さらに街にはチフスや栄養失調などで6人に1人が命を落としていた。この現状に、「このままでは日本人は死に絶えてしまう」と義侠心を燃やしたのが松村だった。
在留邦人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮への集団脱出を立案、実行するのだった。それまでの活動家人生で培った北朝鮮の共産党人脈を駆使するのはもちろん、戦前は「敵」だった旧朝鮮総督府の警察官僚の協力も取り付け、さらにはソ連軍とも渡り合い、列車を使った在留邦人の大量輸送や漁船をチャーターした海路での脱出も敢行した。
1946年10月、国による引き揚げ事業が開始された事を受け、約9ヶ月に及ぶ「集団脱出」工作を終えて、12月、他の在留邦人と共に松村も朝鮮の地を後にした。帰国後の松村は、脱出工作のため資産家から借り入れていた借金の返済に苦しみ、遂には家族を置き去りにして失踪。
つまり松村は、自ら借金を背負って、同胞を帰国させようとしていたのだった。
その後は、病に倒れて本来なら輝かしい功績を世間に誇ることなくこの世を去った。
1967年55歳の時だった。「引き揚げの神様」が、その家族にとっては必ずしも「いい父親」ではなかったことのエピソードが彼の長女からも窺い知れる。※これは、松村の晩年を調べた中で著者が思った感想です。
参考本・参考資料
「奪還 日本人難民6万人を救った男」Kindle版 城内康伸(著)新潮社
デイリー新潮
現代ビジネス
Yahoo!ニュースhttps://news.yahoo.co.jp › articles北朝鮮で難民となった6万人の日本人を脱出させたゴリゴリの反政府主義者の …より。
補足 証言者 得能 貴美子さんについて 山下 春美
この記事を書くにあたり、各ネット情報を調べる過程で、証言者「得能貴美子さん」が引き揚げ体験について本を書いておられることを知りました。併せて紹介しておきます。
コメント
昨日(8/31)の南日本新聞「みなみの本棚」(推薦本コーナー)に、「歴史に『義士』の足跡を」というタイトルでこの本の紹介がありました。紹介者は、加藤聖文氏 駒沢大教授。
紹介文の中から抜粋して紹介させていただきます。
「ー特定のイデオロギーからではなく、困った人を助けたいという純真さが松村の行動の原動力であった。(中略)極限の状況下では学歴も経歴もイデオロギーも役に立たない。結局のところ、人間性がものを言う。」
この人間性というものを失わされてしまうのが、戦争だと思うのですが、それを失わずにいた人がいた、ということは、人間存在への希望の光のように感じました。