物語「約束の地」ー戦争を経験した父の人生ー⑧

2024年

    第六章

  福寿37537部隊

 次に編入されたのが独立混成第133旅団司令部 通称「福寿37534部隊」独立歩兵第789大隊で、133旅団は独立歩兵第787、788、789、790の4個大隊、旅団歩兵隊、旅団工兵隊、旅団通信隊、旅団輜重(しちょう)隊、旅団挺進ていしん大隊で成り立ち、在満応召者で編成されたようだった。

 四平で編成を完結したわが隊は、朝鮮元山ゲンサン地区警備のため転進を準備した。

 我々歩兵隊の軍装備は長さ1.7m、銃剣を装着した重さ4キロの三八式歩兵銃に弾薬5発を1セットにした挿弾子を30発分収めた前盒(弾薬盒)ぜんごう だんやくごうと前身頃に左右2つ、また60発入りの後盒1つを革帯(ベルト)に通し、計120発を1セット携行していた。

 ほかにも弾薬付きの挿弾子そうだんしは3個で15発を紙箱に包装されたものを、紙箱のまま弾薬盒に収めるよう決められていた。

 そういった軍装備品で我々日本陸軍歩兵は、小銃・弾薬120発、ガスマスク、水筒、手りゅう弾2個、鉄兜、擬装用網ぎそうようもう、軍服上下、予備の靴1足、配給鉄剤4袋、コメ6キロなど28キロの重量を抱えての進軍だった。

 しかし朝鮮元山警備に転進する7月末頃になると、装備品も不足しがちになり輜重隊(しちょうたい)であった2才年長の榎坂一等兵も苦心していた。

農家の出である榎坂えのきさかさんは軍馬について語ってくれた。「うちにも農耕馬がいたんですが、うちの馬はそりゃ力の強い馬でして、稲わらやほかの重たい荷物も道がないところでも、ぬかるみや急な斜面でも馬車を引いてくれていたんですよ。

小組合長さんがお国が軍馬として買い取ると言ってきたのだが、そんな手放すわけにいかんですよ。うまく断ったんですよ。そん時は。

でもね、二、三ヶ月ほどしたら青紙が来て徴発されましたよ。」

「青紙てなんですか?」

と聞くと「人間の赤紙と同じですよ。召集令状です。そうなったら断われんです。今頃どこで働いているのやら、はたまた生きているのか、自分の農業の相棒でしたからね。気にならん方がおかしいです。」

 我が隊で榎坂さんは輜重隊として駄馬で荷物を背に積む馬や、駄馬から輜重車しちょうしゃを轢く轢馬ひきばになるための訓練もお手のものだった。

 駄馬だば一頭につき80キロの荷物を積んで移動していた。内訳は針金切断器10丁、網5巻、機関銃弾薬180発、自動小銃の弾800などであった。

 これらをこれらを軍馬が積んでくれたおかげで轢馬は川の中でも荷物を運べたし、重い荷物を背負って悪路を進んでくれたし、負傷して歩けない兵士たちも運んでくれていた。

 しかし、馬が使用できなくなると、これらのすべてを兵士が運ばなければならなかった。

 駄馬や轢馬は大変有能な兵士だった。

 またほかにも、野営続きで食糧の兵站(へいたん)が滞って野草でも食べなきゃならない時には、榎坂さんが「馬が食べる草は食べられますよ。」と教えてくれたので、馬が食べている草を見つけて我々も煮て食べたりしたが、腹をこわす事はなかった。

 我々兵隊にとって馬は戦場で一緒に戦っている物言わぬ戦友であり、ましてや軍馬の世話をしている兵隊にとっては、もっと強い感情があったはずである。

 その軍馬が弾に当たったりして死ぬと戦友を亡くしたも同然だった。

 8月9日になりソ連の突然の参戦に伴い、旅団長である原田繁吉少将から訓示があり「我が隊はいままで朝鮮元山警備のため準備をしていたが、これより対ソ連に向けて新京地区の警備に移駐する。これは孫氏の兵法の『兵とは詭道なり』という言葉があるように、勝利のために作戦の変更である。」との命令によって、朝鮮元山転進から新京への移動先変更の行軍が始まった。

 何のことかわからなかったが、師範学校の先生だった山下二等兵が道すがら意味を教えてくれた。

「原田旅団長のいう兵とは詭道きどうなりというのは、『孫氏の兵法』の計篇の最後にある、戦いは所詮騙し合いでいろいろの謀りごとを懲らして敵の目を欺き、状況いかんでは当初の作戦を変えることで勝利を収めることができるという古い兵法の歴史書の言葉です。」

「さすがに先生はいろいろ知ってるな。」と言って感心したものだった。

 新京への移動の最中には飛行機が低空飛行での攻撃を仕掛けてきたが、見たら星のついた飛行機でソ連機だとわかり、その機の激しい機銃掃射きじゅうそうしゃをかわしながら、8月12日に新京に到着し、南岑なんれい地区の防衛に従事しはじめた。

コメント

  1. 赤崎雅仁 より:

    長春・南嶺、北朝鮮元山には、叔父がいたので行ったことがあります。
    元山には、刑務所があり刑務官を務めていた叔母が、引揚後にも刑務官として福岡刑務所に西区、ここには郵政研修所があります。休日は遊びに行っています。
    長春の南嶺は新都市の計画で日本人が多くいたようです。戦後はホテルなどがあって
    近くには桂林大街があります。

    • せしたみつる より:

      読んでいただきありがとうございます。
      当時のリアルな記憶がある人は、今や貴重な存在です。
      ぜひ詳しく教えていただければ幸いです。

  2. 春光 より:

    コメント、有難うございます。赤崎さんの叔母さんが刑務官をされていたお話は初めて聞きました。とても興味深いですね。あらためて、元山は、なんと読むのでしょうか?

    • 赤崎雅仁 より:

      日本読みで元山はゲンサンと現在は朝鮮読みでウオンサンと読むのでしょうか、
      私の父の兄貴が、ここの巡査どんでしたが何か病気で終戦前に帰国しています。
      戦前は日本からだと日本海に沿って鉄道が引かれ琿春まで通じていたのです。
      帰国してから世話になった叔父は朝鮮鉄道郵便の吏員でした。

  3. 赤崎雅仁 より:

    元山刑務所は、女性の囚人が多くいたため女性の刑務官も必要だったのでは、
    政治犯も多くいたと聞いています。朝点呼が終わると東の方に向かって頭を下げさす、
    強制だったとか。植民地支配の悲劇でしょうか。だから戦後日本人に対する鬱憤がすごかったと思います。

  4. 春光 より:

    元山の読み方を二通り教えて下さり、有難うございました!