相次ぐ空襲
昭和19年になりますと、大本営の発表でも、サイパンで日本軍が生きて虜囚の辱めを受けずと、栄光ある玉砕を選んだと美談になっていました。七月に入ると、米軍のB29が鞍山上空にも飛来することになり、私たちは隣組の軍事訓練を受けるようになりました。
子供のいる家庭は子供たちを防空壕に入れ、風呂のある家は風呂に水をはり、火事用の防水水としてバケツで運ぶ準備をしていたのです。防空壕は風も通らない暗い洞穴で、そこに閉じ込められている子供たちも、親たちの真剣な表情から重大さを察知してか、ぐずる子も、泣く子もいませんでした。
7月29日、8月4日、8月27日、9月8日、9月26日と続けざまに鞍山空襲は続くようになりました。米軍のB29の大群は遠い中国奥地の成都から、長時間かけて飛来してきた敵機の編隊を、日本軍は何一つ察知できず、爆撃に遭い一番大事な軍需工場がやられているのに、地上からの反撃もできないので、敵は日本側をみくびってゆうゆうと引き上げて行ったのです。
その夜のラジオでは、大本営発表で「敵機数機飛来、鞍山地区を空襲せるも、我が方の損害軽微、操業になんら差し支えなし」とごまかす始末でした。
大型の五十キロ爆弾を多数落とされて、昭和製鋼所も操業不能となり、深志さん達を含む全社員は不眠不休で復旧工事にかかりました。
40日かかって復旧したかと思ったら、操業開始日の9月8日にまた来襲。
この日は、曇っていて、視界が悪かったので投弾の照準が狂い、会社を狙ったはずが会社より少し離れた社宅街が軒並みやられたのでした。死者がたくさん出て痛々しかったです。一瞬で住宅街は散々たる姿に様変わりしました。
空襲の爆弾は向上破壊のための大型爆弾でコンクリート建の社宅は瓦礫の山と化してしまいました。
9月末の五回目の空襲は、鞍山で一番頑丈で立派だと噂されていた防空壕が直撃されて、中にいた親子連れが亡くなりました。私たちを含む社宅の住人も、防空壕に駆け込むことが多くなる日々でした。
そんな中で、昭和製鋼所の「消費組合」の仕事をしていた手島さんは、深志さんたちのような昭和製鋼所の工員たちに物資を届ける立場にありましたが、昭和19年夏から激しくなった空襲を避けるため、七嶺子に疎開したのです。
手島さんによれば、そこでのちに一部の武装解除後の旧日本兵に対し、八路軍(中国共産党軍)とソ連軍、国民党軍が入り乱れての「千山事件」を目撃したり、大変な思いをしながらやっと鞍山に戻ったものの、鞍山市街地もその頃は、日常的に銃撃戦が行われていたのでした。
満州にも内地と同じように「大日本愛国婦人会満州本部」その地方本部という組織が形成されており、私たちも所属していたのです。
志づさんたちも「婦人会から部隊へ奉仕に行っています。仕事の種類は申し上げられませんが、決戦作業に従事して、終日元気に働いております。」というような話もしていました。在満日本人召集で男子が減っていく中で、銃後の守りでも女性の比率が大きくなっていました。
また、こういうことを言っていたご婦人もいました。
「全てを犠牲にしても、国家の進むべき方向へ私たちすべてが突進せねばならないと存じております。小我を捨てるということは難しいことですけれども、有史以来の日本の国を守るために個人の存在など本当に軽いもの、喜んで国の為ならどんなことでもしたいと心から願っています。女の私には今すぐお国に立つ役立つ事はありませんけれど、戦争目的遂行のために私たちの生活自身を国家と共に進んでいきたいと思います。」
このような模範的な言辞の背後には、検閲への意識が働いていたのかもしれません。
だからこそ、それが本音だったとは思えないのです。
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