「昭和19年2月6日 第六垂水丸 沈没」

2024年

  2月9日(金)垂水市立図書館に行ってきました。垂水丸が沈没する時に助かった人の手記や当時の新聞記事などが展示してあり、当時の状況がよくわかりました。また、当時日本が中国東北部に建国した満州国に関する切手も展示してあり、大変興味深いものでした。2月25日(日)開催です。ぜひ、ご来場くださいませ。

 昭和16(1941)年、12月8日の太平洋戦争突入以来、日本はミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどで敗北を重ね、戦況は日ごとに悪化していきました。

 多くの軍艦、船舶も撃沈されていく戦況で、軍は民間の船も徴用していくようにり、鹿児島と垂水を結ぶ垂水汽船など、民間の船も軍によって徴用されたのです。鉄などの物資不足から、垂水の海潟では物資輸送のための木造船会社も造られました。

 昭和19(1944)年2月6日の日曜日は寒い日でしたが風もなく良い天気でした。この日の朝に出航する予定の第六垂水丸に乗船するために大隅半島全域から多くの人が集まってきていました。

 そして、出航する間際には船の喫水線がひたひたと水に洗われるほどの船客があふれ帰っていました。垂水航路の船が軍に徴用され、垂水汽船の船便も12往復から4往復に減らされていたこと、当日は日曜日で鹿児島に用事でいく人や、受験のための検診にいく子供たちが多くいたこと、鹿児島から戦地へ向けて兵隊さんが出発するので、家族の最後の面会日であったこと、などが重なっていたからでした。

 乗船客を満載し第六垂水丸はゆっくりと桟橋と離れて、方向転換で舵をきったところ、バランスを崩して転覆し、しばらく船底を海上に見せていましたが、その後、水柱を上げて海中に沈んで行きました。

 阿鼻叫喚の中、会社の人たちはもちろん、町民も救出した人々の体を温めるために、自分の家の板壁や垣根等を壊して海岸で燃やしたり、当時の垂水海軍航空隊の隊員たちもこぞって救助に当たりました。

しかし、死亡者540名(令和6年1月末現在)を出すという海難史上まれにみる大きな遭難事故となりました。定員(340名)の2倍を超える700名以上の人が乗っていたのでした。

 今年はちょうど第六垂水丸の遭難事故が起こって沈没事故を知る人が少なくなりつつある現在、決して忘れてはならないことを肝に銘じながら、今年も展示会を開催いたします。
                               令和6年2月
                        ≪垂水市教育委員会・垂水史談会≫

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